何才

この記事、最終的に自分のための記事になってしまったので、アップする必要ないんですが、記録として残したいのでアップさせてもらいます。本当に読まなくて大丈夫です。すみません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最近やたらとベボベの「二十九歳」を聴いています。

2014年6月4日リリースのアルバムで、かなり前のように思われるんですけど、まだ当時と同じように聴けています。ベボベはどの作品も消費されないように制作していると言っていて、どの作品も飽きないし、聴くたびに発見があると思ってます。

 

今まではこのアルバムを聴くときは救われたいとかそういう時だったんですけど、今はそうじゃないと思っていて(でも、どこかで救われたいのかも)。何か必然的にこのアルバムに手を伸ばした気もするし、また自分の好きな記事を読むようになってました。そのタイミングで部室に置いてあるJポップの解析本みたいなやつに手を伸ばしたら、自分の好きな記事が引用されていて。怖いくらいに偶然が重なった気がした(けど、これも必然かもしれない)。

 

Googleで「Base Ball Bear 二十九歳」で検索していろんなインタビュー記事とか個人でやってる知らない人のブログとかを読めるだけ読んで、このアルバムが何で自分にとって重要な一枚なのかを考えるようになったんだけど、確かに書いてあることが全てなのかもしれないけど、まだ何かあるなって思ってしまった。自分の中で言語化されていない感覚を言語化されたときに否定したくなるような、そんな感じだった。

 

絶対に何かがまだあるんだけど、見つけれない。しかも、それは死んだ後の世界でも見つからない。そんな気がしてる。でも、絶対にどこかに見つけたい何かはあるはず。見つけられないけど。

っていうのを書きながら、インタビューで話してた内容が頭の中を駆け回ってきた。そもそも答えを提示していなかった、されていなかった。そりゃ見つからないですわ。でも、見つけてみたい。

 

あー、でもこれが彼の言う「普通」ってやつか。

あー、やっぱ小出祐介凄いわ。テーマを全てアルバムの中で語ってる。

多分、何才になっても自分はこのアルバムと対峙して生きていくと思う。でも、それが人生ってやつだから。”普通”ってやつだから。